10月23日 三峡


水没を待つだけの街並み
何でこんなに眠いんだ 船上で寝たり起きたり 

 常になんとなく騒々しいまま夜は過ぎていく。船上ゆえに文句も言えぬが、決して寝心地のよい夜ではなかった。サザンのJAZZを聴いたり買いだめした水を口に含んでみたりとしてみたが、いずれも深い眠りに導いてくれぬまま 僕は布団に包まっていた。重慶からだいぶ離れたため川べりには何の光もなく、窓から差し込む光は皆無と言ってよかった。ところが俄かに船内に活気が漲る。同室の男たちも何か待ちわびたような気配を漂わせながら目を覚ました。僕はベッドから落ちる懸念があったのでR君を2階に押しやっていたが、2階の彼も起きた様子だ。どうやら起きるべき時刻らしい。まだ窓の外はそれこそ暗幕でも垂らしてあるのかと思うくらい暗かった。

 それもそのはず、時刻はまだ午前5時だが、とにかく第一目的地の豊都に着いたからみんな降りろ!ということのようだ。眠くて仕方がなかったがとりあえず準備をした。しかし、なかなか下船できる状態にならない。というのも、この時間に豊都に着く船が無数にあるようで接岸までに渋滞状態が発生するのだ。随分早く起こされたわりに上陸できたのはそれほど早くなかった。それにしても昨日から「悠久なる三峡」というキャッチフレーズにそぐわない旅が続いている。

 ガイドのねーちゃんの指示に従って朝まだきの街を抜けるとロープウエーの乗り場に辿りついた。しかしながら接岸時にも見られた混雑は当然ここにも押し寄せ、長蛇にして幅広な列が乗り場まで続いていた。辛抱強く待っていたが、ここで中国入り以来初めての腹痛が発生した。行列から少し離れたところにトイレがあったので、少々劣悪な条件でもいいからとりあえずトイレが必要だと判断して小走りで向かった。そこには、まるで昭和期の銭湯のように男女の分岐点に変なおばさんが腰を下ろしている。しっかり使用量5角(約8円)を請求された。だがその5角のおかげだろうか、トイレは船内のものよりよっぽどいいものだ。救われる思いだった。で、列に戻るとR君はかなり前まで進んでいてくれたので喜びは二重のものとなった。

 ロープウエーは、きっと日本の国土交通省の基準なら失格なんだろうなぁという代物で、鄙びたスキー場のリフトだってもうちょっと頑丈なつくりをしている。平気な顔をして乗っている中国人達の神経の図太さに思わず感心した。が、乗ってみると特に不具合もなく万全の様相で上まで運んでくれた。登るにつれて眼下に広がる朝ぼらけの三峡を楽しみながら鬼城に到着した。余談だが、ロープウエーのように、2人で乗る仕組みになっているものに出会うと今回の同行者がR君であることがちょこっとだけ寂しくなる。もっとも、そんなことを言い出したら元も子もない。

 正直なことを言ってしまうと、この豊都・鬼城は船がそこに停まるからという理由だけで立ち寄った観光地であって特に興味がなかった。鬼城という、文字通り人間くらいの鬼の人形が城の内外に設置されているだけの施設に興味を持てといわれてもなかなか難しいというものだ。子供を喜ばせるほど愛らしくもなく、大人を喜ばせるほどリアルでもない。もちろん、せっかくだからという例の貧乏根性で隅々まで見て廻ったが、事前の予想をちっとも覆してくれなかった。退屈なので中国人の団体旅行客の記念撮影に紛れ込んでみたが、これがどういうわけか猛烈な憤怒を呼んでしまいほうほうの体で退散した。撮影に命でもかけているのかというくらいの形相が忘れがたい。飽きてきたところで下山し船に帰る。この頃にはもうすっかり明るくなり、行きと帰りではかなり周囲の景色が違った。驚いたのは、ただの街並みと思って歩いてきたところが実は水没を控えた惨憺たる廃墟と化していたことである。建物の輪郭を留めているものすら珍しいくらいで、その上に朝っぱらから盛んに「破壊活動」が進行していた。店の人にも何か覇気がなく、「最後の一踏ん張り」の心よりは「どうせもう廃業じゃ」という諦めのほうが強い様子だ。何の購買意欲も湧くことがなかった。

 船に帰ると同室の中国人が大きなダンボール箱を持ち出した。乗船時にさりげなくベッドの下に忍び込ませていたようで、そこには10食ほどのカップラーメンが入っていた。最近この国ではカップラーメンがちょっとしたブームなようで、そういえば各地でよく見かけた。簡便だからという理由を超えて愛されている様子であったのだ。同朋3人で食べるのだろうと思ったら、僕ら同室の人にも食べろと言ってくれた。中国にいてポットの湯に困ることはあまりない。R君はあまり気に入らなかったようだが、僕は大いに中国カップ麺を楽しんだ。寝不足な上に腹が膨れれば体は眠りを要求する。今度は船の微妙な揺れがむしろゆりかごのそれのように感じられ、心地よく眠ることができた。

 昼前に船が再度接岸した。次に停まるのは石宝塞というところだと聞いていたので上陸しようとするが、同室の人はおろか船内の人は何事もないようにしている。ガイドのねーちゃんも迎えに来てくれない。「こりゃ、石宝塞はつまらないからみんな寄らないんだ、オレらはせっかくだから見たいよな」という思いが一致した我々は上陸した。船の外には数々の食事を並べた商売人が集っていて、その人たちに「石宝塞はどこか?」と尋ねてまわった。要領を得た人が「あっちのほう」みたいに指差す方向がどう見ても港と川の流路の関係からいっておかしい。しばらく歩いてみても見つからない。混乱の極致に達したので諦め、船に戻った。そこでゆっくり話を聞いてみると、どうやらここでは昼食を補給するためだけの停船をしたようで、石宝塞はまだ先らしい。指差した男は、後から考えれば確かに河の下流の方向を指していた…。

 午後2時頃、石宝塞についたところで再び下船する。ここは街などなく、ただ石宝塞と名づけられた城塞が建つだけだ。川岸からかなりの急勾配を登っていくが、その10mにも満たない幅の一本道の両側にはほとんどフリーマーケット状態の店が場所を争うように乱立していた。まるっきり石宝塞とは関係ない土産品が中心で、観光客が落としていく金だけが目当ての商売をしていた。石宝塞まで普通なら10分くらいの距離だが、ちょこちょこ店の品に気をとられたために随分と時間がかかった。塞についたときにはガイドのねーちゃんが「遅いよ!」みたいなことを言っているが理解できぬふりをして笑顔でかわす。石宝塞は要塞というよりは楼閣といった雰囲気の建物である。そこから眺める景色は曇り空のせいか絶景というにはやや不足の感が否めないものだった。楼自体の建築学的価値などわかるはずもないので、その景色が外れてしまった以上そこはもはやあまり意義のない地となった。ちなみに、理由はわからぬがここは海外観光客、とりわけ西洋人が非常に目立った。帰りもガイドに急かされたが、途中で中国四大美人を刻み込んだ筆の4本セットを発見した。この国で必ず一つは筆を買って帰ろうと思っていたので値段を聞いてみる。30元(約500円)。日本の水準から見れば安いがどうせ観光客だからと思って吹っかけてきてるのだろうと思い値切りの交渉を始めた。結果18元(約300円)まで下がったので購入。12元以上に相当する労力を要したが、これもまた旅のよき思い出となるだろう。

 船に戻ると眠くなる、そんな条件反射がごく短期のうちに身についたようで抗いがたく眠い。次の目的地と思われる、三国時代の猛将・張飛を祀ったとされる張飛廟にはいつ頃着くのかとガイドに尋ねたが、それは水没から逃れるため、たった3日前に遠く彼方に移動されてしまって今はもうないという主旨の答えが返ってきた。これで、何ら気に留めるべき事項がなくなった。R君は船の中で中国語会話集頼りの会話に奮闘していたが、そんな様子に気をとめることなく眠った。

 夕影が船内に差し込んできた頃に目を覚まし、船の甲板に出て吹きすさぶ秋風に身を晒していると妙に感傷的な気分になり、突然R君とこれまでの旅を互いに労い始めた。揉め事は今までないわけではなかったが、よくまあここまで仲良くやってきたではないか。長い長いと思った旅ももう半分過ぎたのか。じゃあビールでも飲むか。例の騒々しいカラオケを備えた娯楽室へ行って青島麦酒をラッパ飲みした。1本5元(約80円)だからいくらでも飲める。しかもなかなかうまい。あまり冷えていないのが若干の難点だったがかなりのペースでツマミの一つもなしに空いていく。3本くらい飲んだ。さらに船内の売店でカップラーメンを買い腹ごしらえ。ビールを何度も買いに行った上にラーメンまで買い、売店のおばさんとは中途半端な顔見知りになってしまった。

 次の目的地は高名な白帝城だ。僕が寝ている間にR君が親しくなったという英語の喋れる台湾人・張さんを紹介され、「白帝城では是非君も一緒に御飯を食べよう」ということを言ってくれる。しかも、その人は日本滞在経験もあるそうで、ちょっとした会話なら日本語もOK。「すき焼き」「すき焼き」と連呼するので、白帝城ではすき焼きが食えるのかと期待し、船内のつまらない食堂で夕食をとるのはやめておいた。それに、すでに結構酔っていたから食事が遅くなるのは望むところであった。そうこうしているうちに船が停まった。時刻は10時半。

 川岸にはまた粗末な屋台がちらほらと立ち並んでいる。だが、時刻のせいか土産物屋など一つもなく、大半は簡易食堂といったところである。上野近辺のガード下にあるおでん屋のようだとでも言っておけばいいだろうか。およそ清潔感からはかけ離れた、まるで水没直前の撤退を予定しているかのような店である。それはともかく白帝城へ。ここも鬼城同様、ロープウエーで登っていく。そして同様に、乗り場には行列ができている。鬼城もそうであったが、著名な観光地というのは大挙してやってくる観光客によって踏み固められてしまい、意外性は限りなく0に近づけられてしまう。従って、そのもの自体に特別の興味がない限り、それは観光というよりむしろ確認という趣の行為になる。ガイドブックに写真が載っている建築物を見て喜ぶことは若者の好奇心を満たすのだろうか。「実物を見た」ということにどれほどの意味を見出すかには個人差があるだろうが、少なくとも「かわいい子には旅をさせよ」という金言の意味するところはそういうことではないはずである。その点、白帝城はその典型であり、充分にその平凡さを予想し、期待はするべくもなかった。

 ところが白帝城はすごい。この国においては、積年の重みをもった白帝城とて「夜は電飾があったほうが映える」という考え方をするらしく、せっかくの白帝城がたかが数本の電飾のおかげで威厳も妙趣も木っ端微塵ではないか。目の当たりにした瞬間、あっけに取られる以外のことは何もできなかった。さらに盛んな電飾が施されていたのは、「観星亭」という孔明がここで星を観たとされる曰くつきの建物であるがこれもすごかった。いかなる大都市のいかなる陳腐な星空であっても、これほど興をさますことはあるまい。これほど夜陰に映えぬ光は世界広しと言えどそうそうお目にかかれるものではない。負のものとはいえ稀なる意外性を見出した白帝城であった。

 その後、張さんたちと合流して例の小汚い食堂の一つに入って食事。おごりだと言ってもらった以上あまり文句は言えないのだが、どこをどう解釈すればすき焼きになるのだかちっともわからなかった。僕の苦手な辛味の鍋で、牛肉が入っているわけでもない。副菜ばかり進んだ。だが、張さんの体育会系的なノリは凄まじく、それこそ浴びるようにビールを飲ませられる。すでに一定のたくわえが腹の中にあった僕は、散々「さっきすでに結構飲んだんだ」ということを英語とも日本語ともつかぬ言語で説明したが彼が意に介することはなかった。ビールだけの酔いなので非常に気分が悪く、終わってみての感想は「飯をおごってもらってラッキー!」ではなく、「困ったおっさんに絡まれたもんだ」である。船に戻るときは、半ば逃げるような心持だった。