10月25日 宜昌〜武漢


荊州城跡 関雲長が夢の跡
早く宜昌から離れたい 武漢は何やら幸せいっぱい

 船が到着し、港が下船客その他で大いにごった返す。そのせいでガイドのねーちゃんが見つからない。成都ですでに手配していた宿の迎え係が、数々の中国人の姓名の中に埋もれそうな中に 僕の名が小さく書かれた紙を手にもっていたのでひとまず安心し、一心不乱にねーちゃんを探した。苦労して書いたのに渡せぬのではバカみたいではないか。宿の迎え係そっちのけで探した。

 10分くらい懸命に探し回ったが結局見つからなかった。夜も遅いし、諦めて宿に向かおう。だが、今度は宿の迎え係がいない。どうやら、一度返事をしたものだからついてきていると思い込んで宿に帰ってしまったらしい。迎えの車が並ぶ駐車場に駆けつけたが、そこにはもはやさっきの迎え係の姿はなかった。いよいよ途方に暮れると、まるで我々の困惑を本能的に察知したかのように中国人が群がってくる。タクシー、ホテル、いかにも胡散臭い感じで勧めてくる。たとえここで野宿することになってもこの人らの誘いに乗るよりは安全だろうと思い、一切合切無視することにした。

 藁にもすがる思いで船に戻った。船は今晩、宜昌港に停泊するようでまだ接岸していたのだ。しかし、下りるべき人はみな下りたと判断したようで船との間に渡されている橋はすでに閉鎖されていた。これで悉く打つ手を失ったと思われた。なにせ、泊まることになっていたホテルの名を知らないのだ。だが、例の旅行代理店の電話番号は控えてあったので、港の警備員に懇願して電話を貸してもらった。コール中はそれこそ息を飲む思いであったが、こういうときに電話が事を打開してくれることってあまりない。時刻のせいもあってか、何度試しても出ずじまいであった。

 それでも例の怪しげな男らには絡まれたくなかったので断固拒否し、夜道をとぼとぼと歩き始めた。10分くらい歩くと宿が見つかった。宿の良し悪しに文句の言える境遇ではないことは百も承知、よほどの高値でなければここに泊まろうということになった。建物の外見から察するにかなり期待できない宿であったが、他にどうすることもできず門をくぐった。なんと、中にはさっきの勧誘部隊に見た顔がちらほら見受けられる。むこうもそれを察知したようで不敵な笑みを浮かべる。結局ここに来るんではないか、と互いに思ったことだろう。なんとか宿りを確保して、部屋に向かった。建物の中身は、監獄を学校にして、それをさらにホテルに改造したかのように思えた。極端なまでに画一的な造り、異様に幅の広い廊下、脆い扉。だがベッドさえあればこの状況下、どうでもよかった。貴重品に気をつかいながら眠りについた。時刻は既に25時であった。

 そんな宿でも朝は来るものだ。例によってR君が先に起きていたが、どうも風呂の湯が出ないらしく、宿の従業員がポットを6つもってきたそうだ。3つ使って入ったから残りでオマエも入れと。ここで3つ残しておくのが実に彼らしかった。僕がその立場なら、後でR君のためにもう6つもってくるだろうと考えてすべて使う。おかげで僕も3つで体を洗わなくてはならず、風邪をひきそうなほどに冷たい「湯」に苦しめられた。さらにトイレもひどく、それで80元(約1000円)。安く済んだという見方ができなくもない額だが、30元で泊まれた成都の宿以下のサービスと言わざるを得ず、この宿のみならず宜昌という街そのものにまで拭い去りようがない悪印象が植え付けられた。そういうわけで朝食も取りあえず次の目的地の荊州に向かうことにした。手に入れたのは10時半のバスチケットだったが、黙って10時のバスに乗ったらあまり問題なさそうに処理されたのでそのまま乗ってしまった。

 荊州は一般的な三峡下りツアーならおまけの様に訪れるポイントだが、我々にとっては是が非でも訪れたい地である。というのも、荊州城は三国志における壮絶なドラマの大舞台なのだ。ちなみに、僕が最初に覚えた三国時代の州の名前も荊州であった。宜昌からおよそ1時間半で荊州に着き、そこから市内バスで荊州城へ。目的の北門ではなく西門に着いてしまったが、宜昌のホテルで80元も無駄遣いしてしまった身にタクシーは豪奢にすぎる以上仕方がない。西門付近には、喉かに散髪を受ける者もあれば中国将棋や麻雀に興じる者もあり、まるで古代を演出しているかのようである。この同じ瞬間に日本や欧米ではビジネスマンが一分一秒を惜しんで勤労に励んでいる、そんな単純明快なことが信じ難く思われる。ライフスタイルとしてどちらが僕に向いているか、それは言わずもがなであるとともに、言っては元も子もなくなるというものである。

 荊州西門は歴史的な重みがないので無料で登れるが、北門は明代に再建されたもののとはいえその歴史は古く、7元(約110円)という中途半端な入場料を取られる。たかが門と思うと非常に7元が惜しまれたが、関羽の儚き運命に浸るためには欠かせなかった。門から眺める荊州の街並みは特別なものかというとそうでもない。でもこの場合、門に登ったという事実こそが重要であった。そのあと「三国公園」の劉備・関羽・張飛の石像を見て、長距離バスターミナルへ向かった。そこでバスを待つ間にそばにあった小汚い店に入って飯を食べた。中国の食事にすでに順応したらしくこのような食事も何の問題もない。白菜とはかくも甘い野菜なのか、という驚きは新鮮なものだった。

 武漢行きのバスを待つ間、ターミナル内の売店でいい暇つぶしができた。コーラが買いたくて、冷蔵庫の外に見本用らしき形で置いてあるコーラのペットボトルを指差したら、それをそのまま渡してくる。必死で冷蔵庫を指差しながら「不、不」と繰り返したら分かってくれて冷えたのをくれた。少しそこらへんの考え方が日本流と違う。次に目に付いたのは中国版スポーツ新聞。NBAの姚明の写真が大きく出ていたので買ってみた。1.5元でタブロイド版夕刊紙くらいの情報量がある。ちなみに、中国のスポーツ新聞は全面に渡ってスポーツが扱われている。結構欧州サッカー関連の情報などもあり侮れない。さらに面白かったのが、表紙が松浦亜弥の顔の雑誌。中身はなんと表紙とは全く無関係の官能小説集(のようだ)。こりゃまあとんでもない名誉毀損、訴えられても文句は言えないでしょう。ちなみにこちらは、たかが百円程度の金をケチったために僕の手元にはない。漸く出発時刻がやってきた武漢行きのバスは韓国製の車で今までにない乗り心地だった。韓国車の性能がべらぼうによいという評判は聞いたことがないが、相対評価しかできない状態の我々には素晴らしく感じられた。深い睡眠に陥り、3時間あまりして武漢に到着。

 武漢は長江とその支流の漢江がT字型に交わる都市で、河を境に漢口・漢陽・武昌の3つの部分からなる。まず街の真ん中あたりを南北に長江が流れている。その東側が武昌だ。そして、長江は街の真ん中あたりで西から流れてきた漢水と合流する。で、漢水の北が漢口で南が漢陽となる。3つのうちで最も到達して欲しかったのは黄鶴楼がありしかも南方行きの鉄道が走っている武昌だったが、図らずも長距離バスは武昌のバスターミナルに着いた。昨日低迷した運気の急回復を感じる。それにしてもはや25日、香港に28日に着かないと大変なことになるのでまずは武昌火車站、つまり鉄道の武昌駅に向かった。中国の電車に乗るのが困難なことは香港ですでにその一端を垣間見たが、ここでも半ば諦めつつ駅へ。方向感覚を研ぎ澄ませた結果、駅の方向を的確に当て、乗るべきバスをきちんとつかまえた。こんなことはできて当たり前なのかもしれないが、そんな当たり前のことがR君にできなかったわけでこれは僕の手柄なのだ。

 駅には晩飯時だというのに多くの中国人が切符を求めて大行列を成していた。方向感覚において手柄を立てたのは僕だがここにおける手柄はR君の辛抱ということになる。僕一人ならまず間違いなく諦めていただろう、彼が並ぶ気になっていなかったら切符は手に入らなかった。並んでみると、多くの中国人が諦めて列を離れていくので思いのほか早く列は進み、そして窓口に達する。「広州」と書いた紙を出すと、明日の夕方に武昌始発の電車で、広州からすぐの広州東駅まで、軟臥なら切符が取れるということだ。軟臥とは中国の電車における最高の席で、日本で言うならA寝台に相当する。電車がなければ広州まで飛行機で行く他なく、それなら1000元(約16000円)はかかると思われたため、軟臥は最も高く300元(約4500円)といえど大いに得をした気分であった。これでついに中国の電車に乗れる。ちなみに、この軟臥は滅多に中国人は乗れない額だということであの長大な列がかくも早く雲散霧消したようであった。ちょっとした外国人優遇のようで、そこはかとなく歯痒かった。

 次に宿探し。昨日の宿でひどい目に合っている上に電車の切符が取れたため、少々の奮発も辞さぬつもりでいた。それに、どうせ明日も駅から電車に乗るわけだから、できれば駅からあまり離れたくない。そんな心持で駅から続く大通りを歩いていると、重慶で見たような特別価格の看板を出したホテルがある。赤文字で「標準間 230元(約3500円)/室」。ホテルの外観から推測するに、これは不審なほど安い。何せ1人115元、つまり昨日からみてプラス30元で「大厦」という飯店や酒店よりグッとグレードが高い宿に泊まれるのだ。前のめりになってフロントに向かった。外に掲示してあるとおりだと言うのですぐさまサインし部屋へ。素晴らしい。ビューティフル。お湯が出るだけで30元分の価値があるというのに、新車のような光沢が眩しいバストイレ、飛び込んだらその倍くらい跳ね上がりそうな弾力のあるベッド、武昌の街を一望の中に収められる立地、そしてやはり何よりも、好きなだけ使えるお湯。昨日の悪夢から一転、幸せ一杯夢一杯のホテル・武漢広西大厦であった。

 ホテルの食事は特価ではないので外に出る。偶々来たのが2階建バスで乗ってみたら、同じ区間を走っているのに2階建は2元であった。さっきまで普通のバスに1元で乗っていたため頭にくる。繁華街らしきところでバスを降り、とりあえず目に付いたCDショップに入った。ここでスゴイ目玉商品を発見してしまった。「披頭士楽隊」による「従未発行的単曲」を「整理収録」とある。「何!?ビートルズの未発表シングルを収録?」。誰が何と言おうとこれは買いである。一粒の疑念も持たずに「さすが中国三千年にはすごいものがある」と感動してしまった。

 気づけばすぐ近くに孫文の像がある。ここで辛亥革命の口火が切られたため孫文の記念の地となっているのだ。しかしそこには孫文の像以上に目をひくものがあった、というか、いた。妙なオバサンたちが像の前で怠惰な太極拳といった舞踊を行なっているのだ。そこが孫文の前だからなのか、ただ広場になっているからなのかはわからないが、ある種宗教染みた凄味があって迂闊に近づけなかった。しばらくその近くで舞踊を真似て踊ってみたが、意味も意義も皆目わからず、浮世離れしたその集団との一体感は微塵も湧かなかった。あの集団の異様な妖気は一体なんだったのだろう。近くの料理屋に逃げるように入った。そこではメニューが全く見当がつかず、見たこともない漢字から適当に推察して注文したが予想外な食べ物ばかり出てきた。いかに我々の勘が当てにならないかを痛切に感じたが、まあまあ満足のいく食事はできた。少し高めだったが。

 ホテルへはタイのトゥクトゥクのような、つまり三輪バイクに乗って帰った。今までの都市にはどこにも存在しなかったトゥクトゥクがこの街には溢れている。ホテルに着き、久々の洗濯に取り掛かることにした。というのも、ここには使い放題のドライヤーがあるのだ。さすが大厦、新たな魅力がもうひとつ見つかった。しかし、R君は洗濯する余力なしに布団に倒れこんでしまった。成都の洗濯もそうだったが、洗剤がどうしても余るのだ。だからR君の分もせっかくだから一緒に洗濯してあげようかと思ったが、人の下着を手洗いしてあげるほどお人よしではない自分というものを僕はよく知っている。黙々と自分の洗濯だけをこなした。

 せっかく豊かなお湯が得られるというのに眠りについたR君を気の毒に思いながら久々に湯船でゆっくりと足を伸ばした。いつものようにじっくり長湯をして体力気力ともに充実。風呂あがりにミネラルウオーターを飲んで気分はさらにリフレッシュ、リフレッシュついでにR君の寝顔の写真を撮っておいた。そしてベッドに横たわり先ほど買ったビートルズを聴いてみたら、どう考えてもこんな声を出す人間はビートルズの4名にはいないという結論に至った。ひどく失望したが、考えてみれば当たり前の話であった。ここがUKならともかく、中国に未発表音源などあるはずがない。そんな当然のことすら見失っていた責任を昨日ゆっくり眠れなかったからだということにして宜昌に押し付け、明日こそはとふかふかの布団に包まれて胎児のように深遠な眠りについた。