10月26日 武漢〜京広線


新たな旅の起点 武昌火車站
ついに発見 ガイドブックに載ってない三国志記念の地

 ただでさえ僕の方が起床が遅い上に昨晩はR君が先に眠りについている。当然ながらR君のほうが大いに早く目覚め、風呂も済まして身支度も済ました頃に漸く僕も目を覚ました。それでもなかなか起動せず、ソフトをインストールしすぎたPCのようにじれったい。部屋に備え付けてあったジャスミン茶を一服してやっと機能し始めた。

 まず例のトゥクトゥクで辛亥革命の記念館を訪れた。昨晩、孫文の像を見たところである。この手の記念館は概してつまらぬということはよくよく分かっているのだが、それでも入っておかないと何となく惜しい。20元(約300円)を払う。この記念館は、重慶の紅岩村が周恩来を猛烈に礼讃していたのとは異なり、特別に孫文を前面に押し出すという雰囲気ではなかった。目に見えて孫文を記念していることがわかるのは外の像くらいである。あまり孫文が好かれていないのか、それともここでわざわざ礼讃する必要がないほど中国では広く孫文が英雄視されているのか、そのへんは謎のままである。

 引き続き黄鶴楼へ。久々に言わずと知れた名所だ。ただ、黄鶴楼そのものよりは李白の詩のほうが有名であろう。「故人西辞黄鶴楼 煙花三月下揚洲 孤帆遠影碧空尽 唯見長江天際流」という七言絶句だが、冷静に考えるとこの詩は黄鶴楼の美しさを歌っているわけではない。いわばチェックポイント程度の意味合いしかないと言ってもよかろう。この詩をしっているという理由で黄鶴楼に尋常でない期待を注ぐのは間違っているということにもっと早く気づくべきであった。40元(約600円)出して入るはいいが、入場券がカード状になっていて入り口はなんと自動改札。それだけで孟浩然の望郷も李白の寂寥もぶっ飛んでしまう。さらに肝心の楼はたかだか五層の楼閣に過ぎぬというのに中にはエレベータがひっきりなしに往復している。しかもエレベータ使用料は別料金。黄鶴楼でもののあはれの欠片にでもめぐり合えたなら、それは類まれなる幸運と思うべきだろう。景色は悪くなかったが、それは小高い丘という立地に拠るものに過ぎず、別に楼閣に登らずとも見られるものであり黄鶴楼の価値に何ら付与するものはなかった。

 ただ、黄鶴楼の中で中国式の印鑑を彫ってくれる人がいたのはありがたかった。書道作品の左下あたりに朱色で捺してあるあれだ。中国語での説明ゆえに本当のところは闇に包まれているが、何やら彫刻の権威らしき男が偉そうに座っていたのでその人に彫ってもらった。「潤」という字をいかにも中国の印鑑っぽく装飾してくれた。作品としての価値等々はちっともわからないが潤の字が捺せるという事実だけで80元(約1000円)の価値があった。さらに、3m四方ほどの不可侵域を作ってその真ん中に350ml缶くらいの壺を置き、そこに硬貨を投げてそれが入れば幸運というゲーム染みた儀式が行なわれていた。1元を10角にくずして10投。かなり本気になって投げたら8投で3つ入った。その程度の難易度なのだ。10円ほどの出費で、しかもこの程度の難易度で幸運を得ようと思うほうがバカげている。どうせならもう少し神秘的な重みを増すためにもばら撒く金を増やすためにも壺を小さくすればいいと思うのだが。ただ一つ気になったのは、真剣な眼差しで硬貨を投じている大人など他に見当たらなかったことだ。ひょっとしたらヨーヨー掬いに躍起になるダメオヤジのように周囲から見られていたのかもしれないと思うと恥じ入るが、旅の恥はかきすてとは実によく言ったものだとも同時に思う。

 その後、近くにあって前々から目をつけていた牛肉拉麺の店に足を運ぶ。武漢の軽食として有名なようで、中でもその店は昼時ということもあってか空席はわずか1卓のみという盛況を呈している。これだけでも高まる期待。その上、客席のすぐそばで店員が打ちたての麺を自由自在に操り、如意棒のように尽きることなく麺を細く長くしていく。どれほど腰があるのだろうかと期待は沸騰する。きた。美味い。庶民に親しまれる食事というのは得てしてそういうものだが、味付けが極めて無難で、100人中98人くらいがおいしく食べることができそうに思えた。無難においしいというのは非常に到達しがたい境地なのだろうと思う。また、10元ちょっとという値段もありがたかった。牛肉麺を食べて、次の行き先である晴山閣へはどうしたものかと思案に暮れていると、突如便意を催した。ここは昨晩のホテルからそう遠くもなく、トゥクトゥクなら5分で5元ほどで到達できる。その程度なら一度戻ってホテルの綺麗な洋式トイレと再会したかったが、無慈悲なR君の強硬な反対に遭って万事休す、やむなく至近の公衆便所の世話になることになった。経験はないがバンジージャンプに飛び出す一歩はこのようなものだろうか、覚悟を決めて入る。すると、意外や意外、ここはわりと清潔ではないか。それに、成都の宿と同様に嗅いだことのないお香が炊いてあったが、今度はそれほど不愉快な類のものではない。「案ずるより生むが易し」とはこのことか。使用量は例によって5角。同じ使用量で同じ公衆便所でもところによって大きな差があることがよくわかった。こういう小さなステップが街のイメージの浮沈を握るのは仕方のないことだと思う。少し武漢が好きになった。

 さて、晴山閣に行こうとトゥクトゥクと交渉を始める。晴山閣を指示すると値段の交渉の前にダメだという素振りを見せる。このオヤジの気まぐれだろうと他の人に聞くと、これまた同じような反応。話とジェスチャーから察するに、トゥクトゥクは長江を横断できないようなのだ。晴山閣は武漢の南西側に位置する漢陽にあり、ここからは長江を越えなければならない。トゥクトゥクが法的に橋の通行を禁じられているのか、あるいは物理的に、例えば橋のアーチを乗り越える馬力がトゥクトゥクにはないのか、理由は不明だがとにかく断られた。ただ、長江さえ渡ってしまえば晴山閣は漢陽といえど長江沿いにあるので問題ない。でも長江は大河であり、このあたりであってもすでに川幅はおよそ1kmもあり徒歩は大儀。それを見越したかのようにバスがびゅんびゅん橋を通過しているので、それらしきバスに乗って河を渡りきったところで降りればいい。すばらしい。

 我々を乗せたバスは予測どおり橋に差し掛かる。橋に突入、「江上の人」となる。1kmに及んだ橋を過ぎる。右手にはすでに晴山閣がある。ここで下車すれば、晴山へ向かう我々の瑕疵なきプランが完結するのだが、バスがなかなかそれに協力してくれない。赤信号の一つもあればバス停などなくとも無理に下車したところだが、こういうところで我々は妙な「幸運」をもっていてあらゆる信号を青に変える。バスは当然走る走る、やっと停車したバス停は地図によるとすでに河から2km隔たってるようだった。1kmのためにバスに乗ったら2km離れた地点に降ろされる、マンガみたいな展開に憤りながらトゥクトゥクを捉まえた。河を越えるわけではないので容易に了解を得た。晴山閣は黄鶴楼ほどではないものの歴史のある楼閣で、長江沿いという立地のよさを売りにしているが、ガイドブックに5元とある入場料が8元だったので出鼻を挫かれた形になった。それに、黄鶴楼を見た後の我々には、楼閣から何らかの感慨を得ようという心意気が完全に失われている。それに、楼閣から望む長江は、先ほど橋の上から十二分に眺めているので「何を今更」という感じだ。湧くものもなければ染み入るものもない、無機質な感覚ばかりが去来した。

 引き続き、隣接すると言って差し支えない距離に位置する亀山公園に足を運んだ。ここには三国時代の呉の将・魯粛の墓があるというので、これまた観光スポットとしては二流だが我々が欠かすわけにはいかない地の一つだった。ここ武漢は呉の西側の最前線で、戦略上非常に重要な地であった。ゆえに陸戦における統率に秀でた魯粛がここを任されたわけで、ここに墓が建立されたのだろう。公園内を探し回って散々苦労した末に発見した墓は、魯粛のそれにしてはやや貧相な気もする。それに、ここが魯粛の墓であることを語るのは、誰がどう見たって後世も後世、つい最近立てただろうという重みのない石碑のみだ。だがそれこそが、1800年の時を隔てた今もなお英雄として大切にされていることの証拠のようでなんだか嬉しさがこみ上げてきた。さらに、これは当初全く予定になかったのだが、その公園には群雄道と称する一本の道がある。その両側にはなんと三国世界を彩った幾多の英雄達の石像が並んでいるのだ。魯粛の墓だけを見てすぐに立ち去るはずだったのだが。久々にうれしい誤算にめぐり合えた。ここは成都と違って三国ともども縁のある地なので、魏、蜀、呉の順に名将たちが所狭しと立ち並ぶ。三国志演義を題材に作られたことは明々白々で、吉川英治の三国志や横山光輝の漫画のイメージと非常に合致する。生気に欠けた武侯祠の諸将とは違い、陳腐な表現だが躍動感というものがあった。白馬にまたがる趙雲子龍は何といっても一番の傑作で、三国随一の名将にふさわしい凛々しさを全身にたたえていた。

 予定外に時間を食ったということで、R君との間で意見が割れた。R君は武漢の景勝地として有名な東湖を見たいと風流人のようなことを言い、僕は残った時間で買い物をしたいと休暇中のOLみたいなことを言う。このように意見が食い違うと大抵僕が屈することとなり、今回も例に漏れず東湖へ、ただしここは寸暇を惜しんでタクシーで行こうということになった。僕のこのような目立たないながら度重なった屈服がこれまでの友好的な数日間を演出していると僕自身は信じ込んでいる。この文章は筆者が僕でR君の言い分はほとんど反映されないためあまりこのようなことを主張するのはフェアでないが、記録官としての役割も果たしていることだしこの程度のアンフェアは少しく認容すべきであろう。

 女タクシードライバーの荒いながらも安心できる運転であっという間に東湖に着く。ここで入場料を20元(約300円)徴収された上にちんけなカートの運転手に絡まれる。「東湖は広いんだ。オマエらの足では相当大変だろう。この車に乗って1周したらどれだけ楽だと思う。2人でたったの160元(約2500円)だ、どうだ、安いだろう」。言っていることは全然分からなくても、不用な時に限ってやたらとメッセージが鮮明に伝わってくる。要らん要らんと通り過ぎようとしたら「なら4分の3周で100元(約1600円)ならどうだ。そこにはもう一つ門があって、そこから帰ることもできる」。実際のところ彼はそれほど音声を発しているわけではないのだが、メッセージは多分に伝わってきているのでもの凄くうるさく感じた。だが、それを振り払う力と広い公園内を歩ききる気力に欠けた我々がその男を静まらせる方法は100元支払うこと以外なかった。あまり気乗りのしない車の旅が始まった。ほとんどの客が散策を楽しむ風であり我々が痴れ者のように思えてくる。それに、どんよりとした曇り空の下、映えない湖面に立つ瀬なく静まりかえる東湖はほとんど我々の目を引くことはなかった。途中、何のゆかりがあるのか知らぬが魯迅の半身像があって辛うじてシャッターを切る気になった。「さてそろそろ半分くらいきたかな、そろそろ何かでドカンと一発当ててくれないと困るぞ」と思ったとき、そこは既に終着点だった。「嘘つきめ、大して広くないじゃないか!」という怒りのメッセージを運転手に伝えたかったが、先ほどの対話が嘘のように思えるほど伝わらなかった。

 こうして我々の旅程における最悪の地の烙印を押された東湖を離れ、武昌の市街部を訪れる。これまでにも感じてきたことだが、中国における都市の中心的な繁華街は鉄道駅から離れていることが多いようだ。成都、重慶、武漢、いずれも3〜5kmほど離れている。理由として考えられるのは、中国の鉄道は短距離移動客をその対象にしておらず、鉄道における通勤通学というのは考えにくいということだろう。日本の基準で考えれば新幹線の線路をローカルな車体の電車が走っているようなもので、本数も疎らならば駅と駅の間隔も広い。だから中国の駅は新横浜や新大阪のような役割までで、線路からある程度隔たった地域の放射状あるいは碁盤状の道で作られた区画が地形的な利を活かして繁華街となるのだと思われる。武昌の繁華街には様々な大型店がひしめき合うが、その中にファーストフード店が目立つ。街の中でファーストフード店の原色ほど目につく色彩はないので、嫌な意味で資本主義的な街並みを思わせた。ひとまず本屋で「三国演技」と「俗語小辞典」を買う。そして、ここですごいものを発見してしまった。「吉田屋」。その装飾、誰が見ても吉野家のパロディーである。店内の様子はやや日本の吉野家とは異なり、メニューも豊富なようだ。日々の間食を吉野家の世話になっている僕としてはぜひとも試みに食べてみたかったが、せっかく食の宝庫・中国においてわざわざ牛丼を食う無意味さ、それとR君の間食を必要としていない腹加減、これらによって写真だけ撮ってその場を去ることにした。

 電車の出発時刻である17時半が近づいてきたので武昌駅へ。駅付近の大衆食堂でやや早い晩飯を食べ、時刻表と飲み物を買って改札に向かう。手続きとして難しいことは何もなかったが、駅が広大で果てしなく歩かされ、気がつけば我々が車上の人となったのは発車の数分前であった。車掌が切符をよこせというので渡すと日本の通常の切符くらいの大きさの札を渡された。座席番号を記してある。で、降車時に車掌がそれを取りに来るそうだ。我々が広州東駅に到着するのは朝4時半、そんな時間に自力で起きるとはあまりに無謀であるが、少なくとも降車前にこの札を取りにくればそれで目が覚めるだろう、安心して眠りにつけそうだ。

 けたたましい警笛もなければ涙に暮れる見送り客もいない、発車の実感は乏しいままに広州への長い道のりを刻み始めた。北京と広州を結ぶべらぼうに長い京広線の半分を走破すべくまずは順調な滑り出しだ。我々の軟臥は2段ベッドが向かい合い4人分で1室となっている。天井の高さにもゆとりがあり、贅沢感をかみ締めることができる。ベッドから落下の危険がある僕が例によって下、R君が上。ちなみに下のほうが同じ軟臥でも20元(約300円)ほど高い。中国人の寝相についての知識はないが、やっぱり上は嫌なのだろう。同室の2人は、我々と同じ位の年格好の青年とその父親と思しき中年だった。中国人だが青年はなかなか流暢に英語を話す。それもそのはずで、青年はこのたび香港空港から英国留学へと旅立つために南下しているのだそうだ。理系の大学院生という彼の専攻を尋ねてみたが、日本語で聞いてもわからないだろうに英語では見当もつかぬ、成程成程と肯くのみ。返す刀で我々の専攻も尋ねられたが、「ソシオロジー」という空虚な概念一つで誤魔化す他なかった。そんな難しい話題は避けたいものだと思っていると、その意を汲んでか父親が「オレは日本語を一つ知っているぞ」と言い出す。誇らしげにその「日本語」を話す。何となく日本語の雰囲気は漂っているんだけど、どうにも意味がわからない。かつてその日本語を知っていたということに嘘はないのだろうがすでに日本語ではない。「難しいもんだな、ワハハ」と笑って終わったが、残り香程度と言えど日本語に触れ懐かしみを覚えた。

 途中、一人の男が我々の部屋の戸を開けて入ってきた。見たところ工場労働者のようだ。何をするかと思えば、僭越なることこの上なくも青年のベッドの足元に腰掛ける。ところが青年は「それがどうした」と言わんばかりに平然としている。我々は、同室にそんな不審な男がいては枕を高くして眠れぬと憤ったがその男はいい居場所を見つけたという風で親しみを求めるかのような笑顔をしている。時々外の廊下を車掌が通ると隠れるようにしていることからもこの男が不法に侵入していることは明らかなのだが、青年を見ていると中国人からみれば特筆すべきことでもなんでもないようである。30分ほどしたら去っていった。

 孫権の父にして、孫氏繁栄の黎明期を支えた孫堅が旗揚げした地である長沙を21時頃に過ぎた。停まりはしたものの下車する時間はないし、夜ゆえに見るべき車窓が広がっているわけでもない。さらに、日付が変わる頃にかつて項羽が義帝を暗殺したとされる郴州を通るようだったが、夢の中で通過すればそれでいいやという気持ちになっておとなしく寝た。同室の青年はいつまで経っても携帯をいじって、どうやらしばしの別れとなる恋人や友人とひっきりなしに連絡をとっているようだった。一方の中年はランニングシャツにトランクス1枚という晒し者のような姿で豪快に眠っていた。見てはいけない上に見たくないものを見てしまった気がした。