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09.アンコール遺跡編・後編(10月23日)


決裂

 物売りに屈した後、バイクに戻って「じゃあ次はプリアカンだ」と指示すると運転手が反論する。「いや待て。それは遠すぎる。明日にしよう」。僕は契約違反が大嫌いだ。「オイ、1日借り切る約束だろ。指示に屈従しろよ」。だが敵もさるもの、「明日ゆっくり案内してやるから安心しろって」。

 当然僕は彼に対して怒りを覚えた。こいつとはもう一緒にいたくない。が、最低限の移動にはまだ利用価値があると思ったので怒りを内に潜めた。そして、運転手に何らかの報復をしないことには気が休まらぬ。策を練った。「そうかそうか。なら明日連れて行ってもらおう。明日も頼むよ」。慎重に布石を打った。「うまくいったぞ」という表情を見せた時点で僕は策が当たることを確信した。


アンコールワット

 時刻は1時前でそろそろ昼食という頃だった。運転手がいい奴ならオゴるのだが彼とは一緒に食べたくない。「アンコールワットをじっくり見たい。今1時だから、5時に迎えに来てくれ。それまでは家に帰っててもいいし、ガールフレンドのところへ行ってもいい。好きにしろ」と帰らせた。彼も嬉しそうだったが、これであの忌々しい顔をしばらく見なくていいかと思うとこちらも気が晴れ晴れとしてきた。

 朝日の頃に一度アンコールワットを見ているが、それは日の出を見るだけのためだったので真正面からしか見ていない。しかもアンコールトムと違い建物自体の規模が相当なものなので4時間は妥当な時間配分だと思う。

 正面から見た3基の塔の図はよく知られているが、実はそこに至るまでに3重の回廊と環濠がある。一番外側の第1回廊には叙事詩的な浮き彫りが施されている。浮き彫りの撮影は光の加減で至難だった。

 第1回廊の外は芝生で、そこを歩くのも清々しい。だがしばらくすると酷暑に悩まされるのですかさず回廊を日除けに使う。石の建物というのは自然の摂理を超えるほどに涼しい。

 回廊を見ているだけでもその姿は圧巻だが、中央にそびえる高塔も細部までのこだわりが現代まで語りつがれていて非常な美しさを誇る。だが塔に関しては何といっても遠景だろう。左右対称に作られ均整のとれた全体美がやはりアンコールワットの本領であると思う。

 アンコール遺跡は1日20ドルという非常に高い観光料を徴収するが、これは外国人に限った話でカンボジア人は無料でこの世界遺産群に立ち入ることが出来る。カンボジア人から見ればここは子供の遊び場であり、青年のたまり場であり、老人の散歩道である。不思議なもので、知名度が高く外国人観光客の多い遺跡ほど現地の人の数も多い。

 遺跡の中で高校生くらいの年恰好の集団に声をかけられた。旅行ガイドを養成する学校のようなものに通っているそうで、観光地情報が書かれた紙を読んでは暗唱に努めていた。よく聞いてみるとそれは日本語である。紙にも日本語が書かれている。「ここでは圧倒的に日本人の観光客が多いから日本語のできる旅行ガイドが一番稼げるんだ。だから日本語を覚えるのも必死なんだ」。その言葉を裏付けるように、僕が彼らに日本語を指南すると綿が水を吸うように吸収する。だが僕が彼らにカンボジア語を教わっても「ありがとう」すらまともに言えない。語学とはそういうものなのだろう。

 建築学、美学の双方において才能も努力もゼロの僕にとって4時間という時間はあまりにも長かった。3時間見続けさせただけでもアンコールワットは偉大なのだ。1時間を持て余した僕は第1回廊の日陰で石の上に寝転んで昼寝をした。桁外れの早起きをしたこともあって硬い床ながら本当に寝入ってしまった。世界遺産で昼寝、なんとも贅沢な心地であった。


丘の上で

 アンコール遺跡の中に坂らしい坂はほとんどなくその大半はだだっ広い平地なのだが、1ヶ所だけ小高い丘がある。プノンパケンといい、アンコールワットの西にある。日の出はアンコールワットで、日の入りはこの丘で、というのがかの憎らしい運転手のプランだったので5時に合流した後、直ちにプノンパケンに向かった。

 運転手が思いつく程度のプランなのだから当然だが、観光客が夕日を目指して殺到している。手を使わずに登るのが難しいほどの急傾斜なので、息を切らした肥満体が3mくらい前を歩いていると非常な不安に襲われる。でも登った先は想像通りの素晴らしい展望台になっていた。360度が一望千里の大平原である。

 だが肝心の夕日はいつのまにかはりだしてきた分厚い雲に遮られ、空に赤い成分を見つけ出すことすら困難だった。仕方なしに、遊びに来ていたカンボジアの学生4人と英語日本語ともども入り混ぜてお互いの国の話をした。カンボジアの学生の語学力は大したものである。ちなみに「オマエは何年英語を勉強しているんだ?」と聞かれ「まぁ10年ということになる」と答えると「何、10年もか!」と驚かれた。10年のわりに拙いといいたかったのだろう。

 帰りがけに4人の写真を撮った。「あとで送ってくれ」。「わかった。アドレスを教えてくれ。ただしe-mailだぞ」。その時はすでに暗かったので見えなかったが紙に書かれたアドレスは念を押したにもかかわらず紛れもなく住所であった。しかも字が読めない。これには未だに手を打ちあぐねている。


報復

 日も暮れてあとは宿に帰るだけとなった。今日一日の総仕上げとして運転手に報復しなくてはいけない。町へ向かうバイクの上で「明日はどういうプランなんだ?」などと語りかけてくる彼を見て「けっ、バカめ」と性格の悪い笑みをこぼしていた。

 宿の前で止まった。「さあ着いた。明日は何時にここに来たらいい?」「はい今日はありがとう。オマエとは2度と会いたくないね」「え?明日もという約束だったろ!」「今日一日約束を守らなかったオマエとの約束なんて知ったことか。明日行くとしてもオマエには頼まない」「わかった。明日の分は今日より値下げするから」「タダでもオマエのには乗りたくない、帰れ」。

 彼は困った顔で「トモダチ、トモダチ〜」と連呼していた。これで今日一日客探しを怠った彼には明日の仕事がない。少し反省して今後は従順なドライバーになってくれれば、なんてこれっぽっちも思わず、ごくごく単純な次元で「勝った!」とほくそ笑んだ。


アンコールワットの雑記

・遺跡の中には時々学生らしいのが一人でボーっとしている。近くを通るといかにも親切そうに遺跡の蘊蓄を語ってくれる。聞き入ってしまうと「チップ!」。油断も隙もないがそういった情報には意外と価値があることが多い。正直なところ、情報量と思えば安いものである。

・物売りの子供たちは中途半端に日本語が堪能だ。「ニイサン、カッコイイネ」と言って物を売ろうとする。買ってもらえないと「カッコワルイネ、オカマ」と罵倒しはじめる。何度オカマ扱いされたことか。ちなみに、その言葉に刺激されて買うとまたカッコよくなれる。
 

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