10月27日 広州〜香港


走ること1000km 我々を運んだ特快
いよいよ香港「再入国」 最後の夜景は何ドル?

 広州東駅に着く30分くらい前に目が覚めた。車掌が例のチップを取りに来るのはまだ後のようだ。洗顔と歯磨きを済まし、さらに髪を石鹸で洗って下車に備える。車掌がチップを取りに来てからなおしばらくして4時半に駅に到着。同室の親子は香港に行くため終点の深圳まで乗るようだったので、眠りを妨げぬ程度に別れを告げ、鶏鳴間近の広州東駅に降り立った。しかし、この時間に降ろされてもすることがない。地下鉄、バス、鉄道など、ターミナル駅だけに交通網は整っているが現状では機能しているものが一つもない。広州東駅は交通の拠点ではあるもののそれ以外に何かがあるわけではなく、一刻も早く広州駅に向かうことが望まれた。5時過ぎに広州行きの始発バスが出てそれに乗る。これまでの市内バスと比べると桁違いに先進的で、車内に液晶テレビがあった。途中通過する街並みを見ても同様の感想を抱くのだが、広州は同じ省都であっても近代化の度合いが成都や武漢とは比較にならない。少なくみても10年は先を行っている。

 期待通り広州駅の真正面に着いた。明日の15時に香港を発たなくてはならないので今晩中の香港入国が欠かせない。武漢と同じ要領で広州駅の人だかりに紛れ込んだ。まだ5時台であったが決して閑散としていないところが恐ろしい。この駅は途方もない長距離列車が四六時中発着しているようで、まさに眠ることのない駅である。順番がきて、窓口の人に香港行きの切符が欲しいと伝えたがダメだった。広州―香港の切符は非常に入手が困難らしい。広州東駅から香港に行く電車があるような話をしてくれたが、今更広州東まで戻る気にはなれない。またバスに頼ることにした。長距離バスの乗り場は駅からすぐのところに2つもある。両方とものぞいてみたが、中国国内のバスはあり余るほどにあるのに香港に行くバスはどちらにもない。係員に話を聞くと「香港行きなら駅前のホテルから出ているよ」と教えてくれた。言われたホテル「流花賓館」は目と鼻の先にあり、入るなりフロントに向かって「香港にバスで行きたい」という旨を伝えた。だが答えは「ちょっと待て、8時にならないと切符は売れない」。冷静に考えればまだ朝の6時だった。そんな時刻に起きたことなんか滅多にないくせに自分が起きていると人も起きているべきだと思いこんでしまう。とにかく香港行きのバスの出発点がわかったので安心して観光を進めることにした。駅の荷物預かり所に日々重みを増している荷物を預け、市内へと繰り出す。

 まずは「広州市のシンボル」とまでガイドブックに書いてあった越秀公園に行く。駅から徒歩10分の距離にかくも広大な公園があることは市民の精神衛生上素晴らしい。入場料は5元(約80円)。実際、まだ6時半だというのに園内には多くの市民が思い思いに朝の空気を満喫していた。圧倒的に多いのが太極拳。怠惰な舞いとの境界線は相変わらず曖昧だが、それらをひとくくりにすれば園内人口の7割は太極拳をしにやってきていると言える。他にも、バスケのコートもあるしバドミントンに興じる人もいる。これが旅行の1日目や2日目で、しかも前日に万全の眠りを経ていればバスケに参加するのだろうが、旅の終盤にそれは無理な相談である。残念ながら素通り。

 園内にはいくつも池があり、しかも自然が豊富なので歩いていて気持ちがいい。僕のように日頃一秒でも歩く時間を減らそうと試行錯誤している人間にも散策に乙な味を感じさせるこの公園、ひょっとしたらすごいかもしれない。北回帰線が通る準常夏の広州、その朝の爽やかさ、素朴な中国人の日常を垣間見ることができたこと、一般社会にバスケが浸透していること、いろいろなものを感じた。また、この公園はテレビ塔と羊の像があることで知られている。テレビ塔は我々日本人が無意味に東京タワーに集うのと同じ要領で中国人に人気があるのかもしれないが、横浜マリンタワーに慣らされた僕には子供の細工のように見えてしまった。一方の羊の像は、園内のわかりにくい地図のおかげで弱音を吐きたくなるほどに迷わされた末の到達であったが、すごいと言われればすごくないこともないかなという程度のものであった。市のシンボルとしての風格は充分だが、海を渡ってきた観光客の好奇の眼差しに耐えうるものではない。他に博物館が園内にあるようなのだが、まだまだ8時前、開いているはずもなかった。外に出る。公園を出たところで気がついたが、そこは最初に広州に来たときに大雨のなか地下鉄の駅を必死で探した大通りなのだ。暗くてよくわからなかったが、確かに地下鉄駅らしきものはある。そして、確かに地下鉄はまだ走っていない。見知らぬ土地には昼のうちに着いておくべし、そんな当たり前のことを手痛い失敗によって学んだ。

 このくらいの時刻から、街にはビジネス姿の外国人が多数見受けられるようになった。いくら広州の経済が発展していてもこれは普通ではない。何かイベントがあるに違いない、なんとなくそのようなことは10日前の広州にも感じられたが、どうやらこういうことらしい。「広州交易会」という年2回の輸出品見本市が官主催で今まさに行なわれているのだ。帰国後の調査によると、近年では初めて中国と貿易する企業にとっての登竜門的存在となっているようで、今や巨大経済圏となりつつある中国に目を向ける外国企業の人間が多数集うのだ。だから、人種・国籍を問わずいろいろな人がやってきている。それゆえに宿の需要が集中し、価格も高騰するというわけ。我々にすればとんだとばっちりである。しかも今日は日曜日で、ただでさえ多い外国人がピークに達している。おかげでバスがバス停を無視して走るし、タクシーが大きなホテルの前に大行列を作るので交通が麻痺寸前だ。ひとまず朝食をと思って入ったマックは、ちょっと考えれば当たり前だが洋食派の西洋人でごった返していた。

 ここで香港から広州にきたときのバスの終着点だったホテル・中国大酒店に寄ってみた。やっぱり香港行きのバスがここからも出ている。値段は100香港ドル(約1600円)と変わらないし、時刻表を見るとこちらのほうが都合がよさそうだ。というわけでここを17時に出るバスに乗ることにした。ちなみに、18日に雨宿りをしたのはここで、あの日出会った日本語を勉強している女の子が今日もいた。向こうも気づいてくれ、またしばし会話をしたがあちらが仕事中で忙しそうだったので、さすがにもう会うことはないだろうなぁと思いながら別れを告げた。

 ビジネスチャンスに敏感な目をもった外国人がごまんといる今日、中国の立場からすればこれほどいい宣伝の機会はないということで随分多くの企業が巨大な手提げ袋を作って路上で配りまくっていた。複数の手提げをもらっても自社のを一番外側にして使ってもらえるようにと巨大化のいたちごっこが起こり、中には紙切れ2、3枚の中身でも1m×1mくらいある手提げを配るところもあった。経済的な力は皆無に等しい我々にも手提げが集まってくる。今後帰国の途につく僕にとっては手提げが余って困ることはなかろう、必死になってもらい続けた。さらに、中国のインターネット技術を体感してもらおうと街の中にフリーインターネットスペースが設けられていた。ふと気づけば成都以降一度もメールチェックをしていない。これはチャンスと思ってずかずかと入っていきPCをいじり始めたら、誰でもOKというわけではない、と言わんばかりに追い出された。どうやら交易会の関連客だけを対象としていたらしいと今になればわかるが、そのときは激しく理不尽なものを感じた。

 次に行ったのは陳氏書院。簡単に言えば伝統工芸品を展示する博物館である。この手の展示は苦手だ。教養のためにと美術館に足を運んでも、価値も感想も感傷もわからぬまま足早に出口へと向かう僕が中国に来たからといって何か変わるわけではない。「へぇ、すごいねえ」。何を聞かれてもそればかり。それにしても、工芸品よりずっと気になったのは、ここの日本人の多さであった。我々の行程は古代へのこだわりに影響されてか、どちらかというと日本人観光客の少ないところを訪ねることが多かった。三峡の船も一般的に日本人が乗る船よりはるかに下等だったし、桂林を捨てて荊州をとるなど客観的には頓狂なセレクトを繰り返している。それが、ここにきている人の3割、あるいは半分くらいが日本人のようだ。旅先で日本人に、特に集団の日本人に会うと妙にうんざりさせられるのってなんでだろう。心理学的にでも社会学的にでもいいから解明して欲しい。  

 博物館の順路の最後に土産物屋があるのも日本と同じである。数時間後には中国元が使えなくなるということで金払いがよくなりそうな我々には危険きわまりない立地だった。陶器から菓子まで何でもあるというように見受けられたが、ここで目に留まったのがまたしても印鑑だ。字を彫る人が黄鶴楼のあの人に比べて見習いっぽく感じられたが、印鑑の横に置いてあるものがよかった。筆・墨・文鎮・朱肉・水差し、そしてさらに印鑑。どれもこれも欲しくなってしまった。すべてセットで230元(約3500円)。誰がどう見たって高いのだが、日本で一度飲み会を我慢すれば買えると思うと安いものだ。それなりに迷ったが勢いに任せて買った。今度は姓名併せて彫ってもらう。

 R君も再び印を彫ってもらうことになったのでしばらく時間がかかる。他の物も見てみることになった。そういえば我々、まだお茶らしいお茶を飲んでいない。もっともらしいお茶の葉を一つくらい買おうかと眺めていると、売り場の人が「試飲しませんか?」と。試飲用の席に連れていかれると、試飲という言葉が相応しくないくらい大仰な入れ方をしてくれる。ジャスミン茶の葉は直径1cmくらいの球状に丸めてあって、それを湯のみのなかに落とす。お湯を注ぎこんでしばらくしたらその湯を捨てる。当然それは茶の色をしているのだが「一度目は茶の葉をふやかすためのもので飲むためではない」そうだ。勿体なく思う暇もなく再びお湯を注ぐ。葉が驚くほど広がっている。しばらくしたら、湯のみに皿でふたをして、そのまま別の湯のみに注ぎ込む。それを我々の目の前に差し出してくれる。これぞ中国の味。じっくり入れてもらったせいもあって大変なものを飲ませてもらった気がした。さらに我々の無遠慮な注文にも笑顔で応えてくれて、5種類くらいの茶を試した。でもやはり最初のジャスミンが忘れられず、それを買った。何杯分あるのか知らぬが100元(約1600円)だから茶にしては立派な買い物だろう。

 さてここからが大変であった。まず僕の印鑑が彫りあがったので試しに捺してみた。なかなかよかったので満足の旨を伝えると、それをセットの箱の中にいれてくれようとした。が、あろうことか店員がそれを地面に落としたのだ。字を彫ってあるほうは無事だったのだが、反対側が欠けてしまいせっかくの模様が台無しになった。石を選ぶときに「この模様がいい」と思って選んでいるだけに僕もショックだったが、やっと彫り上げた人も自業自得とはいえかなりショックだったようだ。当然彫りなおしとなる。10分くらい経ったか、今度はR君のを彫っていたがそれに字のミスが発覚した。これも失敗。また10分くらい経って今度は僕のを彫り上げた。字を彫る分には僕のものの場合はさっきと同じ要領でいいのでミスをするはずはなかった。しかし、代わりにと言って選んでくれた石が干支を彫り込んでいるものだったのだが、何とそれが申でなくて戌なのだ。何故僕が戌年の印鑑を持たなくてはいけないんだと不満を爆発させてもよかった。でも、それは彫っている人があまりに気の毒であったし、わずかしかない広州観光の時間をさらに浪費するのは得策ではなかった。僕のことを2歳若く見積もったということにしてその功労で特赦した。その後R君の印鑑もできあがった。ちなみにお互いに一本ずつの失敗作があったわけだが、僕のは印字部分の反対側が欠けてしまったためもはや使用不能でその石ももらえることになった。体裁は悪いがきちんと字が彫ってあることには変わりないのでもう一つ印鑑を得たようなものだ。ところがR君のは印字面の失敗なので少し石を削れば再利用が可能であり、もって帰ろうとしたらダメだと言われていた。同じミスでも若干だが明暗の差がでた。でも30分余計に費やしたので僕はプラスマイナス0、R君はただの損といったところか。

 1999年開通の地下鉄が建設中のものとは別にあるのだが、その駅が陳氏書院のそばにある。駅の名が「陳家祠」というのだからそれもそのはず。わずか2駅、2kmほど東に行って下車。北京路、そこは広州随一のショッピング街である。日本で例えるなら原宿・竹下通りというのをどこかで聞いた。そうでないとは言わないが、竹下通りにしては一つ一つの建物が大きいし道の幅が広いのでやや雰囲気が開放的である。竹下通りの雑然とした感じがない。ただ売っているものは近いかな。ここでさらに5000円分を元に換えてショッピングに挑んだ。本当にいろいろな種類の店があり、その気になれば1日でも2日でもここで時間を潰せそうだ。いられてせいぜい2時間というのはあまりに短すぎる。

 まず本屋、ついに見つけた江戸川乱歩の小説。今、中国では「らんぽ」が熱いという噂を聞いていたので是非欲しかったがついに見つけた。20元(約320円)は格安という他ない。次に服。広州っ子のニーズに応えてかかなりの数の店が軒を連ねている。相当数に足を運んだが、最もコストパフォーマンスに優れた商品を提供しているように思えたのはSPARKLEという店だった。ケリー・チャンをイメージキャラクターに起用してポスターを店内に貼りまくっている。それが知っている顔だったせいか、なんとなく安心感があったのも事実だ。そこで長袖Tシャツを2枚買う。40元と70元で合わせて110元(約1700円)。生産だけでなく販売も中国、当然ユニクロより安いわけだ。本当は冬用の上着を格安で買いたかったが、わざわざ持ち帰る手間を考えると割安とは考えにくかった。ちなみに、日曜だからかキャンペーン期間中のようで、一定額以上買うとマフラーをプレゼントしてくれることになっていた。僕は全然知らなかったのでレジで袋にマフラーを詰め込まれたとき「そんなの買ってない!」と声を荒げたのだが、たまたま後ろに並んでいた中国人が英語で解説してくれたため、事情がつかめて赤面した。マフラーの柄も本来は選べたのかもしれないが今更我がままも言えず、真紅一色のものを受け取るしかなかった。

 買い物を終えて昼食に移ったのが15時頃。「食は広州にあり」の言葉が忘れられず、本格的に広東料理を楽しむべく見かけが上等な店に入ったのだが、時間帯が悪かったせいか間食程度の食事しか用意していない。店員の不愉快そうな表情を浮かべた接待、我々を避けるように座る周りの客。最悪だ。せめて間食くらい楽しませてもらおうと思ったがこれもたいしたことがなく、美味いものどころかまともな食事にもありつけなかった。

 バスが出る中国大酒店に慌てて戻った。まだ30分ほどの余裕がある。残った金が250元ほどあったので近くの広州ハードロックカフェに行った。スウエットが230元(約3500円)。ほとんど中国元を一掃できる格好の買い物だ。SPARKLEに比べれば甚だ高いが、外国ブランドは中国においてもどれも高いので我慢するしかない。おかげで飲み物などの小さな買い物をする金もなくなりR君に借りて香港ドルで返すことになった。いよいよ広州ともお別れだ。バスは行きと同じコースを逆に辿るだけだし時間帯も同じくらいなので新しい発見が少ない。やっぱり出国の手続きは同じように面倒だった。無事、香港に到着。

 すでに20時をまわっている。香港の滞在時間は短いため、基本的にどの行動も急ぎ足である。バスターミナルからタクシーに乗ってまずはホテルの確保に出た。しかしほとんど情報がない。我々は中国旅行に来たので中国のガイドブックはもっているのだが、香港は別冊になっているらしくそこに香港の情報がほとんど載っていないのだ。仕方なく、R君のガイドブックにあったわずかな情報をもとに、香港島を避けて九龍の地下鉄沿いを目指した。何と言っても今回の旅では三峡下りと武漢―広州の交通費が大幅に予定を下回ったので金銭的な余裕がある。何の懸念も持たず目に付いたホテルに飛び込んでみた。値段は900ドル(約14000円)/室。いくらなんでもこれは高い。諦めてその向かいのややくたびれたホテルに行ってみる。最初2人で600ドル(約9500円)を提示されたが、「それは高い!」と交渉に入る。応酬の末、「ならいくらならいいんだ」と半ば投げやりに言ってきた。我々は頑張って500ドルちょっとというところだろうと思っていたので「500」。すると「OK」。我々にとっての500はホテル側に苦渋の選択を迫らせる数字だったのでその反応は予想外だった。もしかして500ドルでも相場よりはるかに高いんじゃないかという気もしたが、さらなる交渉で決裂でもしようものならそれこそ時間の無駄と判断して受け入れることにした。最後に「480でいいか?」とR君が一声放つとそこに落ち着いた。2人で約7500円。部屋は大いに満足できたし地下鉄の駅も近い。しかも、あんまり関係ないけど案内してくれた女の子が利発そうでいていかにも好みの顔立ちをしていた。

 下心があったわけではないがその女の子にいろいろと相談すると、レートのいい両替商を案内してくれた。残念ながらすでに閉店していたがその近くに若干レートは悪いもののホテル前の胡散臭い両替商よりは随分いいところを見つけた。そこでドルを得ていよいよ夜景を見るために地下鉄に乗って佐敦駅から中環駅へ。我々は目的地の名をビクトリアピークではなくビクトリアパークだと思い込んでいたためにそこで多少の混乱があったが、中環駅から歩いて10分ほどの距離にある乗り場からピークトラムと呼ばれるケーブルカーに乗った。往復で30ドルだったと思う、およそ500円。23時発のピークトラムに乗ってビクトリアピークへ向け、高尾山ケーブルカーとは比較にならぬ急勾配を駆け上がり始める。この時刻に登るような人は他におらずこの場合最高の席であろう最後部に座ることができた。急傾斜と急カーブが続くうちに次第に眼下に広がる言わずと知れた100万ドルの夜景、のはずが、事前に見た写真ほどの光の粒が見受けられない。天気が悪いからか?時刻が遅いからか?その要因を考えるうちに山頂に到着した。

 なんでもかんでも「ピーク」とつければいいという安易さが気に入らないが、山頂にはピークタワーだとかピークカフェだとか、商業施設が並び立っている。が、すでに営業時間終了後だ。辛うじて人がいる店もすでにラストオーダーを終えていて、何もすることがない。その上、無料の展望台まで閉まっている。展望台でなくとも夜景を一望することができるのだが、やはり何か今ひとつ冴えない。それこそ七色の宝が虹のごとく輝いているはずの香港が、光の数だけを無闇やたらと誇っているように見えた。でも、それでよかった。就職先もなければ特に夢があるわけでもない、将来に活路を見出すことができない22歳の夜に、R君などと眺めた香港の夜が輝けるものに見えてはつまらない。空のコンディション、街のコンディション、そして僕のコンディション、それらが三位一体となって、そのすべてが最高の時にだけ最高の姿を現す。そうでなくてはいけない。そうでなくては100万ドルの価値がない。

 また香港に来よう。香港が、夢を叶えるべき舞台となったときに。

 この時刻にピークにいるような種類の人は実に限られている。群から意図的に離脱したつがい鳥のごときのみであった。退廃的で、居場所のない風で、やけに反社会的で、他者の憐れみを誘うような幸せの中にいて。そんな中に場違いにもほどがある僕とR君が足を踏み入れたわけで、「腹が減った」と騒ぎ立てる我々にお似合いなのは場末の小汚い料理屋であった。最終トラムまで1時間しかないのか!と焦りながら登ってきたのにたった30分で下山の途についた。

 ホテルの近くに戻ると、この時刻でも開いている店は豊富とはいえないまでも選択の余地が残されているくらいはあった。新大久保の屋台村のような店に入る。外観にあわせたかのように椅子も卓も粗末だ。そこでビールを片手に一足早い旅の反省会を行なった。よく10日間も決裂することなく旅をしてきたもんだ。明治期の主婦のように献身的だった僕の努力は一応実を結んだわけだ。中国語は全く成長しなかったけど中国人との意思疎通は格段に上手くなったし、三国志の足跡にも触れた。そして超経済大国・中国の足音も耳にした。小学生だった頃からこの国に注目してきた僕の渇望にも似た興味は大きく満たされたのだ。感慨無量な面持ちを浮かべて次々と杯を乾した。

 帰り際に気がついたが、夜の香港にはいかがわしいネオンがきらびやかな建物がごまんとある。実態はよく知らぬが、香港では「カラオケ」と銘打つ店も殆どがキャバクラみたいなものらしい。他にもその手の店が多く、やや希薄ながら香港の歌舞伎町といった雰囲気であった。路上には渋谷駅ハチ公口あたりにもいそうな、雑誌を売る商人が点在し、公然とポルノ雑誌やらCD−ROMやらを売っている。中国本土は日本より規制が厳しいため中国人はFRIDAYに只ならぬものを感じとってしまうが、香港はイギリス仕様なので日本より規制が緩い。こんなことからもわかるが、すでに国境とは呼べないはずの一本の境界線の右と左は、文化というか常識というか、社会的生活を送る上での前提的な部分における厳然たる相違によって今もなお隔絶しているのだ。どちらがいいともどちらが悪いとも思わないが、両者の折衷は極めて困難なことに思える。

 部屋に戻ったR君は妙に元気でいつまでも眠気を覚えずなかなかトークが鳴り止まない。でも僕は「いい加減にしてくれ」と言いたくなるくらい疲れていた。彼は、香港の自由な空気に触発されてか、そういう話を延々と続けていたが、僕には力ない相づちが限界だった。